面倒くさがりはなおらない
気が向くと凝った料理をする。お洒落なところだとカプサだったり、スパイスカレーだったり。はたまたオニオングラタンスープだったり。
「そんなの凝った料理のうちに入らないよ!」
とおっしゃる方もいると思うが、生来の面倒臭がりの私にとって奇跡のようなものである。
普段作る料理は本当に適当もいいとこ。まあ不味くはないので食べるし、お腹もふくれる。満足とまではいかないけれど、文句はない。
こんな調子なので、あまり上達しない。でも上手くなりたいなあなんて思うときがあるから、たまに凝ったものを作るわけで。
むかし、ちびまる子ちゃんが言っていた。
「面倒くさがりはなおらない」
これを聞いたとき、子供ながらに絶望した。大人になれば治るものだと思っていたから。
私はこのさき一生、何をするにしても面倒くさいなあと思いながら生きていくのか。面倒くさいという苦痛を味わいながら。はは、まさか。
本当だった。
大人になった今でも、多少の根気は身についたものの、毎日”面倒くささ”と戦っている。
せめて、お風呂に入るときくらいは”面倒くさい”と思う回数を減らしたい。歯を磨くときも、人と会うときも。
まあ結局お風呂も入るし、歯も磨くし、約束も守るほうなので、思うくらいいいか。
バーにて
水曜のライブ帰りに、バーに寄った。
そこには顔見知りの常連さんが一人いて、店主と話に花を咲かせていた。
私が話についていけないでいると、店主が気をきかせて話を振ってくれた。
「私さんと〇〇さん(常連さん)てなんだか似てますよね」
とんでもない、私こんなに豊かにコミュニケーションとれないもの。と思ったのだが口をついたのはこんな言葉だった。
「そうですか?私この前、”話し方がゆっくりなせいかもしれないけれど、暗い”と言われてしまったんですよ」
話の流れを汲めていないなあと思いつつ、ああ、こんなにも気にしていたんだ、と気付かされていると、
「そういったことをおっしゃる方は、見透かされるのが怖いのですよ。私さんがそういうつもりもなく、言われた意味を考えているだけだとは思いますが」
これを聞いたとき、バーテンダーは強いな、と思った。もちろんお酒を作り、会話をすることが仕事なのだけれど、こういったとき、本当に”武器”になるものを持っている。
帰り道、20代前半のころ友人にすごく落ち着いているねと褒めると、ありがとう。そうなりたいと思ったからかな、と彼女が言った言葉をなぜか思い出した。
ただの嫉妬
生きることは考えること。ローマの哲学者のキケロもそう述べたように、私にとって物心ついたころにはまさにそれだった。なにか身の回りで起きた出来事に意味を求め、理由を考え、納得したがった。
なんていうとなにか哲学的な香りがするのだけれど、あいにく私は趣味でもなんでも突きつめた経験がない。中途半端もいいとこで終わっているし、「あれ、私これ本当にいいと思っているのかな?」なんてこともしばしば。
人が良いと思っているものなのだから、良いものなのだろう。という人間なのである。
そのくせ内に溜め込んでいるものは人一倍で、考えることで発散している。というより、これしかすべを知らないのだ。
昔、知人に「なにを考えて行動しているのか」ということをたずねた。その知人はすごく上手に生きているんですよね。そのうえ誠実。正直、羨ましかったんです。そしてその知人の答えに驚愕した。
「よく聞かれるんだけど、なにも考えてないんだよね」
私はこれを聞いて拍子抜けしたとともに、なにコイツと。
考えることって、すごく疲れることなんですよね。パワーがいる。そのうえ日常生活も上手くこなさなきゃいけないと思うものだから、もう、へとへと。
ただの嫉妬に理由をつけなきゃやってられないんです。
明日はライブを観てきます。